笠岡市 めがねと補聴器専門店・ツザキが お店の日常と 小さなまちでの活動などを綴ります

2011-03-03

一人の聴き手として/ジャズ大衆舎 on web #2

一人の聴き手として

 チャポーの『砂漠の行進』は、私には「砂漠」というよりもごつごつとした岩がむき出しになっている荒野を連想させた。聖書で読んで写真で見た、ユダの白い荒野。人間を拒み遠ざけるがゆえに、人間を瞑想に誘う。粗野できめがあらく歩きにくい。

 音楽は、40分の間、同じ緊張をもって、執拗であり、重苦しかった。こんな音楽をつくるチャポーという人はどういう人なのか、否、これは個性を超えた表現だ。歴史の中で連鎖してDNAの中に刻み込まれていく民族の記憶、苦悩、怨念…。1991年の湾岸戦争に抗議する音楽だというが、そこに自民族の無意識下の叙事詩を投影させているように思える。

ヨーロッパ人でありながらヨーロッパの終焉を謳う、それは同じヨーロッパ人でもヴィスコンティの優雅や耽美とは無縁だ。辺境からの、ネイションを持たぬ、ヨーロッパ人の視角だ。高橋悠治が長年こだわりつづけてきたカフカや、ベケット、ジョイスたちに通底するものだろうか。私には、『火山島』の金石範が親しみ深い。

これは、コンサートホールの音楽ではない。制御・統制された、抽象的な音の遊びとしてのコンサート、それがコンサートホールの音楽だ。きちんと調律された、ベーゼンドルファーのいいピアノ、よく響く適度なスペースのホール、それがひどく下らないものに思えてくる。16年前と同じ楽器、同じホール、そして聴いた位置も同じだった。なのに、どうしてこうも印象が違うのか。私たちが、生活し、音楽が成立すると思う場所とは、遙かに遠い場所から響く音楽、しかしそれは、限りなくなまなましく、痛々しく、心臓を鷲づかみにして揺さぶらないわけにいかない。個を超えた、民族の意志。

順序は逆になってしまったが、チャポーに先立ち、バルトークの『チーク地方の3つの民謡』という掌品が演奏された。何という楚々とした音楽だろう。三曲演奏されたということが気づかぬほどのひそやかさで、拍手さえおこらなかった。ブラームスやヨハン・シュトラウスのような、中央からの蔑視としての辺境、商品価値としてのエキゾシズム、そういったいやらしさをまとったハンガリーではない。生活の目線、日常の目線の音楽だ。

もっとも、そのハンガリーもバルトークが生きていたオーストリア=ハンガリー二重帝国時代のハンガリーであって、チーク地方はいまはルーマニアにあたる。バルトーク自身が生まれたのもいまのルーマニアだという、知らなかった。考えてみれば、辺境とはいっても自分たちにとってはそれが中央であり、中央という言葉があるから辺境も生まれるのだ。「世界から離れた日常の場所」

高橋悠治はここを今夜のコンサートの立ち位置としたのだ。高橋悠治は、バルトークは後期ロマン派風な作風(弦楽四重奏でいうと1番あたりだろうか?)から出発し民俗(族?)音楽の採集を始めた20世紀の初めにかけて作風を大きく変化させた、と語る。その採集活動は第一次世界大戦によって途切れた。ここにも、国家や社会に翻弄され、権力とは遠いところにある小さな音楽家の姿がある。チャポーの姿と重なると同時に、高橋悠治のいきかたにもどこか似ていないか。


後半は、波多野睦美を迎えて、フェルドマン、ケージ、クルターグ、そして高橋悠治の曲が演奏された。フェルドマンとケージはチャポーの師であり、クルターグはハンガリーの現代作曲家、そういう繋がりと見て取れるが、後半プログラムに共通するのは、表現の徹底した抑制であった。波多野睦美の豊穣な美声を堪能しようと思って聴きに来た人はいささか欲求不満であったかもしれない。

私にとっての白眉は、クルターグの『何というか』であった。「事故で失語症になったシャンソン歌手のリハビリのためのピアノの音に添った朗唱」と説明されるように、言葉は、意味を消失する寸前まで節分され、音片が訥々と吐き出されるばかり。あふれ出る楽想を封印し音楽にならないなにかを、「表現」しようとする波多野睦美の迫力は、リハビリで朗唱したというシャンソン歌手とはたぶん違う性質のものだと思うが、すばらしいものであった。

欧米の三人の抑制がいかにも方法論的であったのに対して、高橋悠治の『長谷川四郎の四つの歌』におけるそれは、いかにも自然で自在であった。ピアノの音数は少なく、歌の伴奏というよりオブリガートのように響く、三味線の弾き語りのような妙味と親しさ。

アンコールは、最初にかえってバルトーク。1929年作曲の歌曲二曲。しかし、ここには、気迫みなぎる壮年の音楽家の姿がある、弦楽四重奏曲やピアノコンチェルトに聴く、あのバルトークの音そのものだ。音楽はいやがうえでも旋回し、高揚した。そして最初の静寂に帰っていった。


(全文・主催者 写真,改行・optsuzaki)