笠岡市 めがねと補聴器専門店・ツザキが お店の日常と 小さなまちでの活動などを綴ります

2011-07-02

「聴く」文学1

「聴く」文学1

 6月25日(日)に、福山市立短大に、公開講座「詩人と歌曲シリーズⅦ 北原白秋~抒情への旅~」という催しを聴きに行った。懇意にさせていただいている、同短大教授でソプラノ歌手、平本弘子さんよりお誘いを受けた。講座は、同短大非常勤講師の寺岡壽子さんの講義と平本さんの歌とによって、北原白秋の詩歌の世界を鑑賞しようという趣旨のものだった。

 自分じしんのことをいうと、かなり前に思潮社の「現代詩文庫」で日本の近現代詩を読みあさっていた頃があった。好きだったのは、萩原朔太郎、中原中也、西脇順三郎、高橋新吉、富永太郎、瀧口修造…などなど。叙情詩というより、象徴詩~モダニスム~ダダ・シュールレアリスムが好きだった。北原白秋も、島崎藤村~萩原朔太郎の流れの中でいちおう読んだ。

 「邪宗門」は、典雅で切っ先の鋭い語彙にある衝撃は受けたものの、後年の幾多の嫋々たる、ときに感傷に傾斜した詩編は、若かった私にはさして訴えることなく、その後二十年以上もその詩集を開くことなく過ぎていた…。

 日本の近代詩人の多くが、ヨーロッパとりわけフランス詩からの圧倒的な影響と憧憬によって詩業をスタートさせつつ、一方でままならぬ日常である日本社会で生きることの哀楽をうたった。白秋もその一人であるが、寺岡壽子さんは、どちらかというと、後者の視点からみた白秋を語っていたように思う。まず、白秋の故郷柳河の風俗に焦点をあてる。後年、福永武彦の「廃市」の舞台になったことが語られたが、私には、ベルギーのロデンバックの「死都ブリュージュ」が想起された。新奇さと懐古的な味わい、不思議にその両方感じさせる、いかにも白秋の詩編が語られる。人生の哀切と倦怠、それを彩るような詩句の数々。私が若い頃に通りすがった詩の風景だが、これが同時代の作曲家の手によって、「音楽」が与えられると、まるで別のもののように生き生きした表情をみせるのだ。

 山田耕筰、橋本国彦、團伊玖磨…、名前は知っていたがたいして関心をもったことがなかった、そんな日本の作曲家が白秋の詩につけた音楽の馥郁たる香気を、私は初めて知った。その方面にあかるい方には笑われるかもしれないが、ドビュッシーやラヴェル、デュパルクなどの歌曲を彷彿とさせる瑞々しさ、そして、それらのどれでもない、何かまるで違う生命をも同時に感じられた。

 平本弘子さんの歌唱には、華があった。歌いぶりは、可憐でありながら力があった。語り口もお洒落だった。そして、なにより日本歌曲の美を人々に伝えようという真摯な態度が強く感じられた。かねて、その素晴らしさを語っておられた、理由の一端に触れたような気がした。

 詩はうたわれるものだった。そんなことは承知しておきながら、私(たち)は、詩を活字として読んでいた。すべての詩がうたわれるべきものではないのだろうが、音楽をともなうことによって、詩がまったく新しい魅力を発することを知った。どうしていままでそんなことに気づかなかったのだろうか、帰るみちみち考えた。




(全文・主催者 写真・optsuzaki)