笠岡市 めがねと補聴器専門店・ツザキが お店の日常と 小さなまちでの活動などを綴ります

2012-05-19

「ヨハネ受難曲」と「マタイ受難曲」 その1

僕のつまんないジョークに、業を煮やされたのかもしれませんが、
その「受難曲」について、主宰がシリーズで書いて下さってます。
「ヨハネ」「マタイ」につながる手引きとしてご一読ください。
 (optsuzaki) 



「ヨハネ受難曲」と「マタイ受難曲」 その1

わが国の著名な聖書学者、田川建三、加藤隆の師である、エチエンヌ・トロクメによると、新約聖書四福音書の中でもっとも早い時期に書かれたという「マルコ福音書」には、もともと、イエスの受難物語は無かったという。(「四つの福音書、ただ一つの信仰」加藤隆訳・新教出版社2002)もちろん、それに続く復活物語も後代の付加によることになる。復活物語が、四つの福音書で、語られ方がかなりまちまちであることを考えれば、それは理解できる。だが、受難物語は、細かな違いはあるものの出来事としての叙述は、四つの福音書に大きな違いはないと言っていいだろう。トロクメは、前掲書の中で、「マルコ福音書」の叙述を実証的に検討することによって、受難物語以降が後に付加されたことを述べているが、それはなかなか説得力がある。もとより、「マルコ福音書」には、「マタイ」や「ルカ」のような、イエスの生誕物語は描かれていないから、著者にはイエスの伝記を描こうという意図は無かったともいう。

では、その受難物語以降の無い「マルコ福音書」=「原マルコ福音書」はいつ頃成立したのか。トロクメは、西暦80年頃にローマで現在の「マルコ福音書」の形にまとめられたと推論し、「受難物語なしの福音書が考え出され、それが三十年間にもわたって用いられていた。」としている。また、別の著作では、「(原)マルコ福音書が執筆されたのは、紀元後五〇年代末、パレスチナのカイサリアの地方においてであると考えてもまったくおかしくないであろう。筆者は伝道者フィリポか、その側近のうちの誰かであったということになる」(「キリスト教の揺籃期 その誕生と成立」 加藤隆訳 新教出版社1998)と、成立年代のみならず、成立の場所や著者までも推定しようとしているのに驚く。

 田川建三も、「積極的根拠もない」としながらも、成立を西暦50年代と推論する。ただし、田川は、受難物語の扱いについてトロクメの説に従っているようではない。「マルコ福音書」を「史上はじめて書かれたイエスという男の伝記」と断定している(「新訳聖書 訳と註1マルコ福音書/マタイ福音書」 作品社2008)。つまり、受難物語も含めたひと続きの文書である「マルコ福音書」の成立を西暦50年代とするということだろう。

 50年代といえば、パウロが第2・第3の伝道旅行を敢行し、パウロ本人の手とされる七つの書簡が書かれた時期である。(「使徒パウロ 伝道にかけた生涯 新版」佐竹明著 新教出版社2008による)パウロは、「(原)マルコ福音書」を読んでいたのだろうか。答えはたぶん否だ。なぜなら、パウロ書簡には、イエスの受難と復活について、多くの箇所で言及が見られる(つまり受難物語以降)が、生前のイエスの言動(つまりトロクメ説の「原マルコ」)についてはまったく触れられていないからだ。

 トロクメも田川も、「マルコ福音書」の成立を50年代と推定しているが、受難物語以降の扱いについては違いがある。それはどちらが正しいのか、客観的に根拠をもって何か語ることは、私なんかに出来はしない。だが、気持ちとしてしては、トロクメの説を採る方が、後述するこの時代の混沌とした状況を説明するのに、面白いように思える。

 いずれにしても、新訳聖書の最初期に書かれたとする、「パウロ書簡」と「マルコ福音書」が、おそらくまったく別の歴史的・社会的文脈で成立していた、ということは言えそうな気がする。ついでに言うと、トロクメが「原マルコ福音書」の成立の場所として挙げたカイサリアへは、パウロは何度か訪ねている。その地で、「マルコ福音書」の著者やその集団との接触は無かったのか。かりにあったとしたら(つまり「マルコ福音書」を読んでいたとしたら)、なぜ書簡の中でそのことが示されなかったのか。(逆に言うと、何も書かれていないから、私は、パウロは「マルコ」を読んでいないと推論するのだが…)

 もっとも、こういった想像も、マルコ成立50年代説が前提となっているわけで、それ以降に成立したとするならば、パウロは読もうにも読めないということになってしまう。

 イエスの十字架上の死から、1020年の間の、黎明期のキリスト教の状況を考えるのに、一級の資料は何と言っても、「使徒言行録」であろう。著者は、第3福音書である「ルカ福音書」の著者と同定されるわけだから、2世紀の著作であることになろう。とすると、語られる紀元40年代と、語っている紀元2世紀とは、キリスト教をめぐる状況がかなり異なることになる。「使徒言行録」の著者は、エルサレム主流派(ペトロ、ヤコブがその代表者)とパウロとの関係を出来るだけ調和的に描こうとしているが、実際には、かなり分裂していた、というより、むしろ相互不信といっていい状態にあったようにも読める。

 一方で、前に述べたように、パウロと「マルコ福音書」のすれ違いがあるし、「マルコ福音書」がエルサレム主流派に対する、とくにペトロに対する批判的な側面を強く押し出しているところを見ると、これまた両者の関係は穏健なものではなかったはずだ。

 加えて、四つの福音書のみならず、イエスの言動をまとめた著作が、他にも存在していたという。

 1世紀中葉のキリスト教を巡る状況は、その力関係においても、神学的教義においても、いまだナショナル・センターといえる権威が存在せず、混沌とした状況であったのだろう。

(続く)