2013-02-28

スケッチを重ねる


身を捩るような月末を終える。冬は春が来るために。

陽の匂いを求めて、海沿いを自転車でなぞる。
何度も何度も同じ所を訪ね、スケッチを重ねる。

撮り終えて帰ると、幼い頃から知っているお嬢さんが
学校の帰り道。

まだ見ぬ思いを描きながら、明日が卒業式という。

2013-02-27

金時鐘先生  / ジャズ大衆舎 on web #13


金時鐘先生

 ついに金時鐘先生にお会いすることを得ました。

 お住まいのある街に先生を訪ねました。さすがに、ご自宅に、というわけにはいきませんでしたが、駅近くのカフェで2時間じっくりと話を伺うことができたのです。

 著書の中では決して語ることのないようなことも喋って下さいました。金先生の、たとえば『光州詩片』にみられるような、難渋でありかつ一瞬の弛緩も無い、張り詰めた詩表現の根拠を、感じとることができたような気がします。

 八十歳を過ぎた高齢ながら、背筋をピンと伸ばし、胸を張って大股で歩く姿は、やはり特別な生命を与えられた存在という感じでした。

 多くの詩の舞台となった、そしてその名が消されて久しい、猪飼野にも足を運んでみました。商店が切れて、何の変哲もない通りを、ゆっくりと歩いてみました。細い路地にもあえて足を踏み入れてみました。「種族検定」「果てる在日」「日々の深みで」「猪飼野橋」…、その詩句が断片的に思い出されました。

 詩とは、文学とは、不思議なもの。それに出会わなければ、決してこんな風景の前でたたずむことはなかっただろうなあ。

 かつて、金先生の奥さんが経営されていたという居酒屋「すかんぽ」にも行ってみました。店の一角に、金先生やこの店に集って来られると思われる文人たちの詩集や文芸誌が置かれているほかは、こぢんまりとした、ふつうの居酒屋でした。それがよかったのです。


(全文・主宰 写真,改行・optsuzaki)

2013-02-26

Light on bald mountain

裏山の応神山が焼けたのはいつでしたっけ、というお話が。

笠岡でも山火事が相次ぐ頃がありました。それも水不足の夏なんかに。

最近そこまで頻発しないのは、このあたりでは山に人が入ることが
減っているからかもしれないと、ふと思いました。

禿げた山は崩れやすく、このまま林が再生しないんじゃないかと
心配するほど痛々しかったですが、それも杞憂だったのかも
しれません。

ほとんど草がなくなってしまった山に、ポツンと生えている木が
今ではどの木かもすっかりわからなくなりました。

若葉が芽吹く頃に、また登ってみますか。





2013-02-25

休石 やすみいし Google+ にアップデートしました


いくつかの機能を有効にするために、
本ブログはGoogle+で公開を致しました。

optsuzakiといままで表記されているものは、今後、
私「石原健」とお読み替えいただければ、
幸いです。

少し緊張もありますが、時の趨勢にあわせたいと
思います。

これからも、ずっとよろしくお願い致します。

2013-02-24

あれかこれか



あわただしいひと月でしたが、なんとか終わっていきます。

次々にやってくる用事をひとつずつすませていって、
昨日あたりから、やっと自分で取捨選択ができるように
なってきた感じです。

僕は並行して仕事ができる方ではないので、なにかを
始めると何かが手薄になります。

でも、それが軽々こなせる人が羨ましいわけではない。

あれか、これか、で、いいです。

2013-02-23

沖の一文字



笠岡湾干拓の水道にある一文字、よく見ると鳥が休んでいます。

長さが、200メートルくらいありますか。
今となっては、あんまり役に立っていないかも。

さて、ここって船で上がれるんでしょうか。

まだ2月だからといっても、このたおやかな感じは、
まもなく春です。

2013-02-22

終わりのしるし


さあてレンズの加工をしよう、とテープを引っ張りだすと、「50 OPTIPADS!」と
舌を出して言われてしまいました。

このマークが出たら、次を忘れず買わないとなりません。

1000枚入りなのですが、左右1枚ずつで使用していきますから、
つごう500組の加工をすると一巻きなくなるわけです。

え、いつから数えてかって? そりゃ、ヒミツですよ(笑)

2013-02-21

はばたきレイアウト大詰め

手作りアイコン

お休みだったので、はばたき三昧っすよ。

もう少しは余裕をもってやりたかったのですが、
やはり月末近くなるんですね、ナカナカ。

作るスピードがアップすると欲が出て、
つい、どうでもよい細かいことに固執しそうになります。

でも、学芸会の写真を除いて、ほぼ出来ました。
できたところから、明日は入稿できるかな。

2013-02-20

ひかりとか隼とか

来訪中の卸の営業さんは、すっかり鉄道のことかと思っていた
ご様子(ふふふ)。

フレッツ光ネクストの工事だったんですが、まだまだ馴染みが
少ないのかもしれません。

従前の光プレミアムに比べ、スピードの点で体感できる事はないのですが、
インフラ整備は提案があったときに流れに乗って行くのが自然かも。

機器の使用料が少し減るくらいではありますが、古い無線ルーターの
やり変えができたりと、「ついで」ができるのがこんな折です。

この回線のスピードがフルパワーで使えるようなサービスが
どんどん出てほしいものです。

技術屋さん作業中でっす

2013-02-19

てすりはここに


答えは、一昨年新装なった、宮島水族館。

冬の水族館もいいかもね。

2013-02-18

波のてすり


こんな手すり、どこにあるのか、分かるかな?

(いかにも形のイメージ通りの場所です。)

思いつきが先なんでしょうけど、下がるときには滑り止まって、
まんざら悪くはないデザインでした。

2013-02-17

オペラ 森は生きている 笠岡公演のご案内


覚悟のある林光さんが、そんなにうっかり一生の仕事を決めたとは、
僕は信じないですけど(笑)。

林さんのことは、以前、こちらに書かせていただきました。



2013年3月20日(祝) 13:30開演
笠岡総合体育館サブアリーナ

協賛金(個人)3000円/1口

申し込み・お問い合わせ
「うたくらぶ」事務局
090-3172-3308
FAX0865-67-0676

主催:「うたくらぶ」
後援:笠岡市/笠岡市教育委員会


2013-02-16

評議員会にプチ部会

今年度を振り返りつつも、懸案を送っていくのが評議員会。
この会のタイミングの意味が、よくわかった今年の会でした。

みんな、大変さが一段上がったという感じなのでしょう。
負担感を切実に訴える姿は、数年みられなかったものです。

子供の数が減っていくのだから、それに合わせた活動を考えなければ
いけないのは本校に限ったことではないでしょう。

だからこそ、勇気を持った自発的な発言が大事です。

それが独善なのかどうかは、不思議とみんなが聞いている中、
わかるものだと思います。

今年、部会で歩いた道。県道が切通された今では、この角度で見通しにくい。

文化広報部は終了後、違う机でそのままプチ部会。

未だラフで申し訳ないのですが、大丈夫よ、モノをつくる調子、
上がってきたから。

2013-02-15

でもストリートビューはまだまだ

熱も下がって、今日はまあまあ元気になりました。

郵便物を出しに表のポストまで行って振り返ると
なんかペイントの派手な車が商店街へ入っていきます。

ぁ! グーグルのストリートビューの撮影車だ。

あわててカメラを取りに戻って、商店街まで出てなんとか
数枚押さえました。

追いつけなかったので望遠で

アップしてみますと

車載のでっかいカメラは、天気が悪くてカバーが付いてましたね。
おなじみ人型のアイコンがあっちこっちに書いてあります。

笠岡の場合、ストリートビュー以前に上空からの写真の解像度が
悲惨です。この様子からもストリートビューはまだ先でしょうね。



大きな地図で見る
だってこうですからね~

2013/02/23revisited

なんとストリートビューだけ公開されてました。
Googleさん、失礼いたしました~


2013-02-13

金時鐘を読む / ジャズ大衆舎 on web #12


金時鐘を読む


 去年の夏の終わりに、在日朝鮮人詩人、金時鐘(キム・シジョン)の詩とエッセイを、もう一度読んでみようと思い、いまなおそれが継続している。かつて、集成詩集『原野の詩』(立風書房)を古書店で入手し、一読はしたもののまったくその意味が自分に沁みてこない、と言うより、何が書いてあるのかさえおぼつかず、長く放ったままにしていた。2年前に、金時鐘本人の詩の朗読ライヴに接し大いに触発されたが、もう一度向き合うまでに時間を要した。それは、やはり金時鐘の詩が、生半可な意思をもってしては決して読み解けない、強靱さをもった生命体であったからだ。もちろん、金時鐘は謎解きを読者に課すために詩をものしたのではない。ただならぬ困難や生きがたい在日の生を渾身の力で生き抜いてきた詩人そのものである詩群が、口にのぼせやすく耳に心地よいものであるはずがない、ましてすらすらと意味を汲み取れるほど薄っぺらいものであるはずがないのだ。


 しかし、ここ10年で驚くほど金時鐘の研究は進んだ。おそらく、それは金時鐘自らが、「済州島4・3事件」に関与し命からがら日本に密航したことを告白して、多くの詩の中で大きな謎であったその部分が解明される道筋がついたことによるものだろう。私と同世代、あるいはもっと若い世代の研究者が、すぐれた研究を続々と発表し、それを容易に読むことができるようになっているのだ。細見和之著の『ディアスポラを生きる詩人金時鐘』(岩波書店)は、金時鐘の詩業を俯瞰するのに、『原野の詩』とともに持ち歩く一冊だ。その細見和之が中心になって編集している『季刊びーぐる』(澪標)の第4号は、金時鐘特集で、特に注意を惹くのが、宇野田尚哉・浅見洋子による、幻となった第三詩集『日本風土記Ⅱ』の復元であった。浅見洋子は、もっとも若い世代に属する研究者のようだが、第二詩集『日本風土記』、第三詩集『日本風土記Ⅱ』、長編詩『新潟』に、きわめて詳細な注釈をつけるという試みをやって、なんとそれをインターネットで公開しているのだ。その丹念で誠実な調査と研究の成果は脱帽に価する。これを読むことで、金時鐘の初期の詩世界が、どれほど自分に近づいてきたことか。ほんとうに感謝したい。

私が、目下格闘中なのが、呉世宗(オ・セジョン)著「リズムと抒情の私学 金時鐘と『短歌的叙情の否定』(生活書院)である。この400ページにわたる大著の中で、呉は徹底して方法的であり実証的に、金時鐘の詩を分析する。これは、浅見洋子についても言えると思うが、詩の一字一句を大事にして、金時鐘の詩業を丁寧に意味づけてくれる。とりわけ、金時鐘が大阪で詩作をはじめた1950年代、それは彼らが生まれるとうの昔(私にとってもだが)のことだが、在日朝鮮人を巡る歴史事象を克明に詩とともに照らし出しているのが素晴らしい。そういった、忘れ去られようとする現代史に光をあてることによって、金時鐘の詩は、その時代を経験しない者にとっても、立体的に生身の人間の営みとして、その相貌を明らかにするようだ。若い世代の、わかりたいという希求によって編み出された方法と言えるだろうか


 そこでいつも通奏低音のように、詩の背後に流れ、時に激しく顔を出すのが、「済州島4・3事件」の凄惨な記憶である。金時鐘の詩に描かれた、深い悲しみや慟哭はもとより、喜びや皮肉、貧しくも生き生きとした在日の生も、詩人が経験したこの記憶と無関係では無い、否、それが常に寄り添うようにあるということを、心しておかなければならない。


 私が金時鐘のエッセイでもっとも好きなのは、『さらされるものと、さらすものと』(『在日のはざまで』平凡社ライブラリー所収)だ。神戸湊川高校(定時制)での朝鮮語授業の苦闘の様が生々しく描かれている。「チョウセン帰れ」「なんでせんならんね!」の罵声と暴力の中を、身体を張って荒れる生徒たちの前に立ち、その意味を説く、教師としての金時鐘の姿がある。

 

 正直に言おう。私に勇気があって、その場を耐えたのではない。しいたげられた者のひとりとして、本当におこったときの怒りが何であるかを、私は知っていただけなのだ。

 君達のあれは怒りではない。虚勢だ。その程度の虚勢で「朝鮮語」が追いたてられてたまるか!



 私は、このような場面においても、金時鐘が「済州島4・3事件」を経てその場にいるということを、意識しないわけにはいかない。人間の、しいたげられた人間の、ほんとうの悲しみや怒り、それを持ちえた人のことばなのだ。


 やはり若い世代の研究者、崔真碩(チェ・ジンソク)は、学齢期に朝鮮人として生きるか、日本人として生きるかと、と悩み、喪失していった自己を、やはり朝鮮人として回復していく過程を語り、「植民地主義の持つ同化の暴力によってちりぢりばらばらに分断され、さまざまなはざまで揺れている在日にたちは、今一度、『チョウセンジン』という『陰にこもった呼び名』と在日の総和の和としての『在日朝鮮人』を見つめる詩人・金時鐘氏のまなざしと向き合う必要がある。それはまさに、現在に読み返されるべき在日の希望であるからだ。」(『残傷の音「アジア・政治・アート」の未来へ』李静和編岩波書店)としている。金時鐘の存在は、意識ある若い世代の在日にとって、大きな希望なのだ。

 しかし、日本人である私たちにとっても同じだ。否、立っている場所が違うのだから、完全に同じだとは言えないかもしれないが、それでも同じであると信じたい。詩の力、ことばの力、それが何かを変えうるということ、それをここまで意識させる詩人に他に出会うことがあるだろうか。


 さて、ところで、最後に朗報! 金時鐘に密着したドキュメンタリー番組「海鳴りのなかを」がYouTubeにアップされ1時間40分余の全編を視聴することができるのが、ごく最近わかった。2007年に放送されたもので、私はこれまで見ることなく、悔しい思いで過ごしてきただけに、ビックリするとともに嬉しかった。


 金時鐘の半生が濃淡はあるが網羅的に描かれている。


(全文・主宰 改行・一部編集 optsuzaki)

2013-02-12

リクオ×藤井一彦 2月10日(日)ポレポレ

リクオ×藤井一彦 2月10日(日)ポレポレ

ポレポレのライヴ開始は通常19:30だ。この日店に着いたのが19:00。ところが、この日に限って、19:00開始とある。慌てて狭い階段を駆け上がり扉を開けると、テーブルが取り払われた店内にお客さんがぎっしり、50は下らない人数だ。地元も地元、ポレポレが輩出したスター藤井一彦登場とあって、開演を待ちわびるお客さんたちは、すでに熱気を帯びている。

「やられた!」と一瞬冷や汗。でも、後方から立見というのも、演奏風景がよく見えて、悪くない。
面白いのは、その年齢層、30台後半から40台中盤くらいか。それ以外の層がまったくいない!しかも、自分の知り合いが一人もいないというのも、驚きだ。

声援に包まれて、リクオと藤井一彦が登場。
一彦は開口一番「うるせえ!」
いい感じだ。

一曲二人で演奏したあと、前半は、ピアノ弾き語りによるリクオのソロ。CDを一枚聴いたことがあるにはあるが、ライヴはまったく初めて。「弾き語り」というより「弾き歌い」という方が適当か。その歌声は強く明快で、ピアノは快活そのものだ。どちらも最高に巧い。MCもうまい。震災以降、自分がどこへ進むべきか、その悩みを素直に語る。それをテーマにした歌も歌うが、表現に曖昧さはない。エンターテイメントのツボを心得ていると言うべきか。


後半は、アコギ弾き語りによる藤井一彦ソロ。休憩中に、マスターのユウさんは、ライトニン・ホプキンスなんか流して、心憎い。

一彦は、対照的に震災のことは何も喋らない。それは善し悪しの問題ではないし、彼が震災のことに無関心というのでもないだろう。表現にそれを持ち込むか否か、それはやる者の自由だ。歌といい、ギターといい、ステージマナーといい、不良中年ロッカーという感じで完璧。これも、「弾き語り」というにはワイルド過ぎるか。ブルース~ロック的でハードなギターワークは、バンドサウンド的で、やっぱりグルーヴァーズを観たくなる。

最後に二人のデュオとなり、アンコールにつぐアンコールで大いに盛り上がり、終わったのは22:30くらいだった。予定調和的な部分がもちろんなくはないが、客のおおかたは、そんなことは百も承知、それにはまりに来たという風情だ。

納得のライヴであった。



(全文・主宰 写真,改行・optsuzaki)

2013-02-09

カブニの仲間・笠岡市生涯学習フェスティバルへ参加します

カブニの仲間は、第24回笠岡市生涯学習フェスティバルへ参加します。

日時 明日2月10日(日) 出演時間10:00(トップバッターです)

場所 笠岡市民会館 大ホール

    活動紹介の展示もあります


会場でのリハーサルのあと、今日は午後から貫閲講堂で
最後の練習でした。
 




 こちら もどうぞ。

2013-02-08

カトリック教会オルガン演奏会



カトリック教会オルガン演奏会

 23()、つまりU9のライヴを催したその日の、17:00よりカトリック福山教会でオルガン演奏会を催した。つまり、私は主催のハシゴをしたというわけである。両方のコンサートで、仲間の協力によって、こんなアクロバットを犯しても何とかことなきを得ることができた。関係して下さった双方の協力者に感謝申し上げたい。

 「やすみいし」においては、U9の陰に隠れた感があるが、これもまた素晴らしい演奏で、たやすく忘れてしまうことのできないものであったので、久しく記憶にとどめておきたいと思って、レポートしておく。

 演奏は、仲谷沙弥香(オルガン)、それに奥野純子(ソプラノ)と甲田恵(オーボエ)がゲスト参加した。

 この演奏会で特筆すべきは、プログラムの全曲がブクステフーデの作品であったということだ。都会でそんな演奏会は驚くことでもなかろうが、私たちの住む街では、おそらく初めてのことだと思われる。

 ブクステフーデと言えば、何と言ってもオルガン独奏曲が頭に浮かぶ。私自身、「全集」のCD4組も持っていて、折りに触れて親しんできた。

 しかし、仲谷沙弥香は、豊穣なブクステフーデの世界を、独りオルガン独奏に求めるのではなく、むしろオルガンを脇に従えた宗教声楽曲を紹介することで、ブクステフーデの様々な表情を見事に引き出してくれた。そういえば、仲谷は、ヴァイオリン、チェロとともに、ブクステフーデのソナタを演奏したこともあった。それほどに、ブクステフーデに寄せる思いの広さ深さが窺い知れる。

 演奏会は、ちょうど一年前に武久源造がチェンバロで演奏した、「プレルーディアム」に始まり、ソプラノが歌う「安らぎと喜びもて我は逝く」-「嘆きの歌」が続けて演奏された。ソプラノ旋律の美しさもさることながら、誠実であたたかみのあるオルガンの伴奏も素晴らしい。「パッサカリア」、コラール変奏曲「天にまします我らの父よ」とオルガン独奏が披露され、最後に、ソプラノとオーボエの入った「主に向かって新しい歌を歌え」が演奏された。もともとは、オーボエではなくヴァイオリンが用いられる曲だが、あえてオーボエにしたことによって、独特の彩りを添えた。しかし、そうかといって曲の味わいをそこなうものでもなかった。

 聴きに来て下さったお客さんも、たぶんこれからブクステフーデを意識して聴いてみようと思われたに違いない。充実した演奏会であった。



















 (全文・主宰 写真,改行・optsuzaki)

2013-02-07

U9所感

U9所感

 たった5箇所とは言え、高橋悠治が同じ人を相手に即興演奏の「ツアー」に応じたのは、考えてみれば不思議な気がする。いくら即興と言っても、回を重ねていくと、定型化していく部分が必ず生じてくるだろうから。定型化することがいけないとは言えないかもしれないが、それははじめに求めていた意図とは離れていくだろう。即興が孕む不確定性や偶然性は、失敗と隣り合わせの場所で、輝きをもつものだから。つまり、内橋和久のギターとダクソフォンは、しかし、推測不可能な鮮度を長く持ちうるということだろう。

即興音楽にも、おおらかな起伏や山場や一致、つまりストーリーのようなものは自然と生じてくるものだ。この夜のデュオもたしかにそれはあった。それでも、いままであった何かに擬えることができるようなものではなかった。

 ピアノとギター/ダクソフォンという組み合わせによるところもあろう。譬えるべき型がそもそも存在しないのだから、表出される音楽はあくまでも自由だ。これが、たとえばギター、ベース、ドラムという組み合わせだったとしたら、一つの定型に収斂されるのは容易だ。(アルタード・ステイツが長く続いているのは、そのことへの抵抗なのかもしれない)

 とくにこの二人は、音楽が型にはまっていくことを意識的に避けようとしているように思えた。ということは、聴く者にとっては、放出される音の飛沫を、無心に楽しむことが出来るかどうかということが、試されることになる。音楽の意味など追ってはいけない。




 今回はお客さんが入らないだろう、と半ばあきらめていましたが、ふたをあければ、すし詰めの満員となりました。今回もまた多くの方々にお世話になりました。それにしても、日曜日の夜に、こういうライヴに興味をもって足を運んで下さる方々が、決して少なくないとは、私たちの街も捨てたもんじゃないな、とたいへん嬉しく思いました。



(全文・主宰 写真,改行・optsuzaki)

2013-02-06

未完を綴る

5時。目が覚めた。昨夜以来の静かな雨の音が残る。

「そこにあったともなかったともいえる」音が混じりながら
冷たい現実は、夢のなかを満たしていた空間と溶け合う。

ツアーは続いている。その間に背中を押すことは、
狭い自分の回想にふけるより、少しは意味のあることに思う。

まだ触れる時間がある今は、ただ伝えたい。 

なにを迷っているのか。いったい、いつまで眠っているのだ。


高橋悠治&内橋和久 U9発売記念ツアー

2/6(水)     新宿ピットイン
開演: 20:00
料金: 3,000円(1D込)
予約、問い合わせ:新宿ピットイン  03-3354-2024

2/11(祝・月)   深谷 ホール・エッグファーム
開場:16:00 / 開演:16:30 終演後食事タイム
料金:4,000円(1D込)
主催:SPACE WHO   048-585-6685
交通:JR高崎線 湘南新宿ライン「深谷」駅より送迎有(要予約)
埼玉県深谷市櫛挽140-1 ホール・エッグファーム




2013-02-05

perihelion passage #1


忘れられない時を背に また会う日まで お元気で


2013-02-04

U9 



pix optsuzaki

2013-02-03

本日・高橋悠治&内橋和久 U9発売記念ツアー @福山


高橋悠治&内橋和久 U9発売記念ツアー

U9 @福山、いよいよ今夜となりました。皆様、会場でお会いしましょう。

お問い合わせは やすみいし まで

2013-02-02

生まれて初めてのしごと


先日、会場で販売するCDが、avexからも送られてきました。
「U9」CDともども、よろしくお願いいたします。

中古の販売は若いころ「お仕事」でしてましたけど、
新譜CDの販売はたぶん初めてです。

あの頃、中古レコードの値段つけをするとき、悠治さんの作品には
つい高い値段をつけていて、上から嫌味を言われてましたね。

ずうっと聴き続けてきた熱心なファンには程遠い僕ですが、
今回お手伝いをさせていただけることを、心から感謝しています。

2013-02-01

堂々と失敗する


電柱でござる

ちょっと大きさが違っただけかも